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オリンピックの採点競技について思う

オリンピック開催中ですね。感動したり、涙したり。連日 応援しています。

 

タイムや球技の点数などは、結果が見ていてわかりやすいです。でも、採点競技って 毎回わかりづらい。特にオリンピックでは それを感じる。過大評価と過小評価。なんで? と すっきりとしない面を残す。

競技をし終わった後の 選手の達成感に満ちた表情。うまくいったことがわかる。解説者もそういう。すごい点数が出ると期待する。けど、思った以上に伸びない。そんな場面が多い。採点競技は結果が変わることはない。

選手の表情が変わる。何も言ってないけど物語ってる。結果としてメダルの色が変わったり、メダルに手が届かなかったり。明暗を分ける。その差はなんだったのかと話題になる。もやもやする。

 

ど素人の自分には 採点競技の細かい部分はわからない。ルール変更や基準もあるんでしょう。あってはならないが、どうにもならない闇の部分があるのかもしれない。勘ぐってしまう。オリンピックは平和の祭典。公平で差別があってはならない。

審査員の主観、経験、名前、先入観、競技順番、アピール・魅せ方、観客一体感、運、そのスポーツの歴史など・・すべてにおいて、それもひっくるめて オリンピックという舞台の採点競技なんだろうか。

それがオリンピック。それで済ましていいものか。審査員によって あまりにも差が激しいのはどうなんだろう。同じ演技を見て 一人は加点で一人は減点だと、審査員次第となってしまう。

本人・関係者は悔しいでしょう。4年間この為に頑張って最高のパフォーマンスを見せた。それが出せた。なのに点数が思い描いたのとは違う。

じゃあ どうすれば金メダルが取れるのだろう。難易度を高めれば危険度が上がる。そもそも、技術に差がないのであれば難易度じゃないし、そうすると本人の競技スタイルを変えて審判員の好みにするということなんだろうか。

 

メダルをとっても、その採点結果に おめでとうと言っていいのか わからなくなる。今はネットでコメントが反応が見れます。世論、みんなはどう思ったか、国内だけではなく海外の反応。

そして、専門家の分析の記事を目にする。誤診、不可解な点数・・そんな言葉を目にすると やり切れない。時代は変わった。ビデオで判定も出来る。芸術性は測れないけど、人の目だけではなく、技、回転等は機械化で公正に判別できないんだろうか。

 

判定への不平不満は 自国の選手を褒めたたえるだけではなく、他の選手への批判へと繋がる。選手達はフェアに戦っているだけだ。ベストを出そうとした。あとは外野の声です。

国民性により 抗議したり 反応も違う。日本の美徳というか 受け入れる姿は美しくもあり、もどかしかったり。

それでも、選手自身が 結果を受け止め、相手を称え 前を向く。清々しい表情に変わった若者のかっこいい姿に 惜しみない称賛を送りたい。勝敗や順位以上のものを見せてくれた気がします。

その圧巻のパフォーマンスに価値があり、見ていた自分は 詳しいことがわからなくても 心揺さぶられた。かっこ良かった。尊敬します。素晴らしい演技は、ずっと記憶に 心に残ります。感動をありがとう と言いたい。

まだまだ オリンピックは続きますね。選手が怪我なく 悔いの残らないベストな演技、競技ができることを。応援したいです。